彼らの見る先の世界

欲望こそがアイデンティティ.

負け犬からのエール

圭人くんの件について。

ファンでもなんでもないやつが、自分の思い出と重ねて好き勝手書きます。ご容赦ください。

 

 

 

 

 

 

私にはずーっと抜け出せないコンプレックスがある。それはゼミ仲間コンプレックスだ。なんやねん、それって感じだと思うが、つまりは大学時代のゼミ仲間と集まると負け犬根性が大爆発するってことだ。大学生だった私は、自分で言うのもなんだが、はっきり言ってリア充ってやつだったと思う。友達も多い、毎日楽しい、なんだかんだ上手くやってた。私の学部では3年から2年間ゼミがあって、私が選んだゼミは学部内でも有名な、忙しくてリア充でキラキラのゼミだった。20人ほどで、男女比はだいたい半々くらいだった。私のゼミにいた女の子は、みんな可愛く、性格も良く、素直な優しい子たちばかりだった。私はそんな女の子の間では少し浮いていたと思う。元々男子側に友達が多かったこと、ゼミ長の男子と親友レベルに仲良しだったこと、何より「可愛くて性格のいい」女子にコンプレックスがあった私は、なんとなくゼミの女の子の間では、馴染みきれなかった。それでも彼女たちは私を仲間外れになんて当然することなく、いつも愛とイジリとノリを持って優しく接してくれた。

とにかく一緒に過ごす時間が多かったゼミなので、本当に私たちは仲が良かった。

よく私サバサバしてるから男友達多くて〜とかいう女いるけれど、個人的な感想だけど、そういうこという女はだいたい女の腐ったとこ煮詰めたような、サバサバとは真逆のドロドロ女ばかりだ。ソースは私。男友達たちと過ごしていれば、自分が女の子らしくないとことか、素直じゃなく可愛げがないとことか、女子力のないとことかを、見て見ぬ振り出来たから。だから楽だったし、そうやって女の子扱いされない自分を、私は女という性ではなく、一個人の人間性が評価されて好かれてる、なんて思い込んでいた。可愛くて素直で優しい彼女達の中に入れば、私の粗が目立つような気がして、そんなこと彼女達は何も言ってないのに、勝手に卑屈になって捻くれていた。男友達たちには私は当然いじられキャラでブス扱いだった。当然だ、私がその扱いを受け入れたのだから。けど自分の評価を自分で決められない私にとって、その扱いはどんどん自分を追い込むだけのものになった。自分が可愛くなくて、性格も良くなくて、素直じゃないことなんてわかっていた。けどゼミ仲間と過ごしていると、改めてそれを現実として突きつけられているような気がして、どんどんゼミ仲間といる時間が、楽しいものじゃなくなっていった。四年になってゼミしか授業がなくなって、更にゼミでいる時間が増えていくうちに、もっとゼミでいるのが窮屈になって、もうとにかくでしゃばらずになんとなく愛想笑いをして時間を過ごすようになった。仲良しと評判のゼミに対し、違和感を感じているのも、なんだかとても申し訳なかった。だから残された時間はとりあえず笑顔を浮かべて過ごした。仲良しでリア充の巣窟のゼミで、はたから見たら私もその一員で、むしろ周りからはムードメーカーだとか評されていた。けど私が感じていたのは、劣等感と孤独だった。勝手に感じているだけなのはわかっていた。でも抜け出せなかった。憧れていた可愛くて素直で賢い彼女達との差から。そうなれない自分への苛立ちから。

 

社会人になって、好きな人とだけつるめば良くなって、とても楽になった。無理して仲良しゼミの一員として過ごさなくて良くなったから。ゼミも卒業後数年はよく集まっていたが、結婚や転勤などで次第にバラバラになっていき、集まることも少なくなった。休みがみんなと合わない私は、何かと仕事、と理由つけて集まりにもあまり顔を出さなかった。逃げたかったのだ。

最近ゼミのアイドルポジションだった女の子が結婚式をし、久しぶりにゼミ生で集合した。一流企業で働き、素敵な旦那様と結婚し、可愛い子供に恵まれて、更に美しくなり、まさにお手本のような人生を邁進する彼女達を見て、会わないで済んでいた間に忘れかけていた私の中の劣等感が、また溢れ出した。私が欲しいものを全部、当然のように持っている彼女達が羨ましくて、眩しくて、そんなのをいまだに羨んで卑屈になっている自分が、惨めで、アホらしくて、情けなかった。卒業して数年たった今も、私のポジションや扱いは当然変わるはずもなくて、まだみんなたくさん絡んでいじってくれた。それを見たゼミ仲間ではない友達たちには、「相変わらず仲良しだし、あなたは愛されてるね」と言われた。自分で自分の評価を決められないのなら、そんな言葉たちを鵜呑みにして素直に喜べばいいのに。皮肉にもそんなのとは裏腹に、早く抜け出したい気持ちでいっぱいで、そんな負け犬根性丸出しな自分にまた嫌気がさす、という負のループを繰り返した一日だった。めでたい気持ちも自ら掻き消してしまった。

 

結局私はいくつになっても自分の評価を自分で決められない。決められないし、そのくせ人を羨んだり、自分を蔑んだりする気持ちだけは、人一倍あるのだと思う。これは勝手な推測でしかないけれど、圭人くんもきっとこっち側の人間なんじゃないだろうか。以前偶然読んだドル誌で、ジャンプのメンバーがお互いの良いところか、羨ましいところを言い合う、というお題の中で圭人くんが、どうせ僕のことはみんな優しいっていうだけなんでしょ、みたいに話していたのを見た。「優しい圭人くん」が存在することも事実だけれども、みんなが繰り返し「優しい圭人くん」を主張することで、圭人くん自身は追い込まれていたんじゃないだろうか。圭人くんはきっとずっとメンバーの中で劣等感と孤独を感じていたと思う。才能も個性もあるメンバーの中で、自分が何者か、自分で自分を評価してあげられなかったんだと思う。「優しい圭人くん」である自分を、「優しさしかない圭人くん」と、捉えることしか出来なかったんだと思う。そこを抜け出せなくて、ずーっとずーっともがいていた。アイドルである以上、顔がいいこと、歌って踊れることは、必要最低条件だ。デビューまでの期間が短かった圭人くんが、その必要最低限に追いつくまでは、並々ならぬ努力をしたことだろう。スタートラインが人より遠かった彼が、「人並み」になること自体も途方もないことだったと思うが、必死でやってやっとスタートライン、その間元々前にいたメンバー達はどんどん進んでいくわけで。ましてや大所帯のHey!Say!JUMPで、常に端っこ、歌割りもないのが当たり前のようなポジションにいた彼が、卑屈にならないわけがないと思う。なんとか一旗あげてやろう、と思って入学した大学も、結局留年を繰り返した後、自主退学という最悪な結果を迎えた。もちろんこの結果を生み出したのは圭人くん自身でしかないが、実はプライドも高く頑固な彼が更に自分を追い込むには充分すぎる材料だったと思う。

私から見た圭人くんは、お顔ももちろんかっこいいし、英語はペラペラで、ギターも出来るし、一糸乱れぬ群舞を誇るHey!Say!JUMPにおいてもパフォーマンスだって遜色ないし、何にも自分を卑下することなんてない、と思える。けど、結局自分で自分を評価してあげられないなら、周りにどんだけ評価してもらったって変われないのである。私自身も社会人になって数年働いて、今仕事ではちょっとした評価を受けれるようになった。なんとなく自分に自信がついたような気持ちもあった。けれども結局、あの時感じた劣等感は拭いきれないままだ。「大学生の私」が感じた劣等感は、「社会人の私」の評価とは、全くの別物で、だから消せない。染み付いた負け犬根性はそう簡単には消えない。だからこそ圭人くんは、今度こそ自分で自分を評価出来るようになる為に、留学したんだと思いたい。

まぁ正直、最近のジャニーズ事務所のあれやこれやを見ると、一時的にでも圭人くんを強制退場させないといけないなにかがあったのかと思ってしまうゲスい気持ちもある。けど小心者な圭人くんが、それでも1人離れる道を選択したことは、自分史上最大の大革命だと、私は思う。圭人くんの今いる場所は、手放すには勿体なさすぎる場所で。もし圭人くん自身が何か思うところがあったって、「とりあえず」なんとかかんとか過ごしていけば、ある程度の活躍が約束された場所で。でも、その場所に「ふさわしい自分」だと思えるようになる為に、圭人くんは行くのだと、私は思いたい。先日行われた48グループの総選挙をたまたま見ていたんですが、そこで4位に入った荻野由佳ちゃんがスピーチで、「去年5位になった時、その順位にちょっとでもふさわしい自分になりたいと思った」というようなことを言っていたのがとても印象に残っていて。圭人くんも「Hey!Say!JUMPの岡本圭人」として、自分を認めてあげれるように、だからいくんだなって勝手に私は解釈しています。

居場茨の道だね、圭人くん。逃げたって言う人もたくさんいるし、これからますます成長していくHey!Say!JUMPというグループに、戻ってきた時には圭人くんの居場所はないかもしれない。でも、だからこそ頑張ってね圭人くん。そしてちゃんと帰ってきてね。

根性見せろよ!英国紳士!!!